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さう呟くと、小谷は追鮎の力を試すやうに竿を高く上げてみた。彼のきいきい云ふ金属性の声は、こんなひとり言のときでも絶えず房一に向つて話しかけたがつているやうであつた。
房一はさつき起き出したばかりであつた。歯ブラシをくはへると、井戸端で向ふむきにしやがみこんだまゝ、何をしているのかまだ顔も洗はないやうであつた。その円く前こゞみになつた、背中から、口のまはりに白い歯みがき粉をつけた顔がくるりと向きなほると、
孫息子に手つだはれて、そろそろと縁側に腰を下すと、道平は何か云ひたげに盛子の顔を見まもつた。そして思ふことがうまく口に出ないときにやる、一心な、どこか苛々いらいらした目つきになりながら、殆ど癇癪を起しさうになりながら、やつと云つた。
ほんとにさうだ、忙しい身分なんだ、どうしてそこに気がつかなかつたらう、――と、徳次は瞬間本気にさう考へ、自分のはしたなさを悔くやんでいた。
と云ふ疳高かんだかい大きな声があたりに響きわたつて房一を面喰せた。
房一は刃物で突く恰好をしてみせた。
「いや、まあ。――後の分もありますよつて、黙つて預つといて下さい」
それは正文にかゝりつけの患家だつた。
「じゃそのお松まつと言う女はどうしたんです?」
富田の仲買は表向きの商売ではなかつた。彼には小造りではあつたが格子戸の入つたしもたや風な家もあるし、山林や田地も人並みには持つていた。だが、それも地主として納るほどではない。用があつてもなくても、何となく用ありげな顔で方々に現れては話しこむ。そして、他愛のない噂話や雑談の中から自分の儲け口を見つけるのに妙を得ていた。彼はあらゆることに、例へばどの田は段あたり何斗米がとれるかも知つていたし、河原町近在の山もどこからどこまでが何某の所有であるかも、時にはあらかたの立木の数ものみこんでいたし、或る家では地所を拡げるために境界の石をこつそり一尺ほど外に置き換へたのだといふ類たぐいにいたるまで通暁していた。おまけに口達者だつた。したがつて多少煩さがられながらも、用のある時にはたしかに重宝な人物にちがひなかつた。恐らく彼自身もそのことはわきまへていたのだらう。何となく小莫迦にされながらも、今日ではどこの家へも自由に出入りできる特権のやうなものを自然と獲かち得ていた。同時にそれは一種鹿爪らしい表情となつて現れていた。
「チブスじゃないです。医者は何とか言っていたですが、まあ看病疲れですな。」
「うむ」
「ほう、クレーといふのはカワラケのことかね」